【1926年から続く】永盛板金のルーツ。ブリキ店から始まり、息子へ受け継ぐ100年の物語

【1926年から続く】永盛板金のルーツ。ブリキ店から始まり、息子へ受け継ぐ100年の物語

永盛 斉(Hitoshi Nagamori)

株式会社永盛板金 三代目代表

昭和30年代、永盛板金の職人が手作りで角鯱(集水器)をつくる作業場の風景(創業1926年)

株式会社永盛板金の三代目代表、永盛 斉です。

今日は、私たちの「家の歴史」そのものを、お話しさせてください。なぜ私たちが「創業100年」と名乗るのか。その言葉の裏に、どんな事実があるのか。誇張も、きれいごとも抜きで、正直に書き残しておきたいのです。

始まりは、ブリキ店だった

私の祖父、永盛芳太郎が群馬県勢多郡東村花輪(現在のみどり市)で店を開いたのが、大正15年(1926年)。今年で、ちょうど100年前になります。

このとき祖父が始めたのは、板金会社ではありません。「永盛ブリキ店」という、一軒のブリキ店でした。

当時、足尾線沿線では、蒸気機関車から飛ぶ火の粉で家が燃える火災が絶えませんでした。祖父は、ブリキ缶を加工して燃えにくい屋根をつくり、人々の暮らしを火から守ったと伝わっています。これが、永盛家が金属で家を守る仕事に就いた、いちばん最初の一歩です。

「永盛板金」という名が生まれるのは、もう少し後 ── 父の代になってからのことです。ここでまず確かなのは、1926年に、金属で家を守る永盛家の仕事が始まったということ。これが、私たちの源流です。

三人の兄弟が継いだ家業

祖父の仕事は、三人の息子へと受け継がれていきました。長男・喜一、次男・悦次、そして三男が、私の父・道二です。三人とも、十五の歳で家業に入ったと聞いています。

長男の喜一は、のちに東京へ出て、自動車の板金の道へ進んだと聞いています。私が生まれる前に他界しており、直接の面識はありません。私が建築板金の現場で直接 一緒に手を動かしたのは、次男の叔父・悦次でした。叔父は、東村で「永盛板金店」を続けていました。

昭和35年(1960年)、永盛板金が手がけた鬼飾りと、当時の初期トラック(群馬・東村)

その叔父が、口ぐせのように言っていた言葉があります。

「職人は、一生勉強だ」

私は、この言葉を本やテレビで知ったのではありません。叔父の隣で、何度も一緒に手を動かしながら、直接 耳にしてきました。だから私にとって、教えを授けてくれた「先代」は、一人ではないのです。

父の独立、そして「永盛板金」

昭和45年(1970年)、父・道二が、兄弟で営んできた板金店から独立しました。群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現在のみどり市)で「永盛板金」を立ち上げたのです。これが、今の株式会社永盛板金の、直接のはじまり。今年で56年になります。

「永盛板金」という名は、このとき定まりました。同じころ、東村に残った叔父の店も「永盛ブリキ店」から「永盛板金店」へと名を改めたと聞いています。正確な年までは、父の記憶でもはっきりしません。それでも、ブリキから板金へ ── 時代とともに、仕事も名前も育っていったのです。

父が忙しいときは叔父が、叔父が忙しいときは父が、互いの現場を手伝い合っていました。だから私は、父の仕事も、叔父の仕事も、両方を見て育ちました。二つの手から、板金の納め方を教わったのです。

土地を変えながら、群馬とともに

1970年に笠懸村西鹿田で始まった永盛板金は、その後、二度 場所を移しています。

私が8歳のころ、家と工場を薮塚本町大原町へ移しました。やがて、その土地が北関東自動車道の用地として買い上げられることになり、私が31歳のころ、家も工場も、いまの群馬県太田市大原町へと移ったのです。(当時の薮塚本町は、のちに太田市と合併しました。)

場所は変わっても、やっていることは、ずっと同じです。群馬の家を、金属で守ること。土地が変わり、道が通り、町の名前が変わっても、その一点だけは、動かしていません。

受け継ぐのが、私ひとりになった

時が流れ、叔父は亡くなりました。跡を継ぐ者はおらず、東村の永盛板金店は、その歴史を閉じました。

こうして、1926年のブリキ店から始まった永盛家の板金の流れは、気がつけば私ひとりに集まっていました。

私が「創業100年」と名乗るのは、ここに理由があります。祖父が起こし、父が独立させ、叔父が守ったその仕事を、今 受け継いでいるのは私だけになった。もし叔父の店が今も続いていたなら、私はこの名乗り方はしなかったでしょう。二つの流れがあったのですから。けれど、その流れが一本になった今、源流である1926年を、私たちの始まりとして背負うことにしたのです。

これは、年数を盛るための言葉ではありません。一本に受け継いだ者としての、正直な事実です。

そして今、息子へ

そして、その100年を、今 受け継ごうとしているのが、私の息子、四代目の永盛睦宜(よしき)です。

祖父から父へ。父から、私へ。そして私から、息子へ。火の粉から家を守ったブリキの音は、形を変えながら、まだ途切れていません。

百年という時間は、ただ古いということではないと、私は思っています。一つひとつの現場で、誰かの暮らしを守ろうとした手の積み重ねです。その手が、また次の手へ渡っていく。私が残したいのは、立派な看板ではなく、この「受け継いでいく姿勢」そのものです。

永盛板金のあゆみ

  • 1926年(大正15年):初代・永盛芳太郎が群馬県勢多郡東村花輪(現・みどり市)で「永盛ブリキ店」を開業。永盛家が金属で家を守る仕事の原点。
  • 戦後:三人の息子(喜一・悦次・道二)が家業を継ぐ。次男・悦次が東村の店を続ける。
  • 1970年(昭和45年):三男・永盛道二が独立し、群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現・みどり市)で「永盛板金」を創業。現在の株式会社永盛板金の直接のはじまり。同じころ、叔父の店も「永盛板金店」へ改称。
  • その後:薮塚本町大原町へ移転。同地が北関東自動車道の用地となり買い上げられ、現在の群馬県太田市大原町2464-13へ移転(薮塚本町はのちに太田市と合併)。
  • 現在:三代目・永盛斉が、1926年から続く永盛家の板金を受け継ぐ唯一の継承者として歩む。そして四代目・永盛睦宜へと、受け継がれていく。

屋根のこと、外壁のこと、雨樋のこと。あるいは、家の歴史のような話でも構いません。何か気になることがございましたら、いつでもお声がけください。職人として、正直にお話しさせていただきます。

よくあるご質問

Q1. 永盛板金の創業はいつですか?

私たちの仕事の原点は、祖父・永盛芳太郎が大正15年(1926年)に群馬県勢多郡東村(現みどり市)で開いた「永盛ブリキ店」です。これが、永盛家が金属で家を守る仕事に就いた最初の一歩です。

Q2. なぜ「創業100年」と名乗っているのですか?

1926年のブリキ店から始まった永盛家の板金の流れは、叔父の店が歴史を閉じたことで、私ひとりに集まりました。源流である1926年を、一本に受け継いだ者としての責任と事実として背負うためです。

Q3. 現在の「株式会社永盛板金」はいつ始まったのですか?

現在の会社の直接のはじまりは、昭和45年(1970年)に私の父・道二が独立し、群馬県新田郡笠懸村(現みどり市)で「永盛板金」を立ち上げた時です。

Q4. 永盛板金の歴史は誰に受け継がれているのですか?

祖父から父、そして私(三代目・斉)へと受け継がれ、現在は四代目となる息子・永盛睦宜(よしき)がその技術と想いを継承しています。1926年から続く手仕事の積み重ねを、次の世代へ繋いでいます。

まとめ:1926年から続く、正直な歴史

永盛板金の歴史は、1926年に祖父が始めた一軒のブリキ店から始まりました。父と叔父の代を経て、その流れは今、三代目である私ひとりに受け継がれています。私が「創業100年」と語るのは、この一本になった歴史を正直に背負う責任からです。そして今、そのバトンは四代目となる息子へ渡ろうとしています。これは単なる年数ではなく、群馬の地で暮らしを守り続けた職人の手の積み重ねです。私たちはこれからも、この受け継ぐ姿勢を大切にしていきます。

株式会社 永盛板金
三代目代表 永盛 斉

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公開日: 2026年07月01日 | 株式会社永盛板金

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